李奎遠は1833年(純祖33) 3月に江原道で生まれ、19歳で武科に合格して公職に就いた。享年68歳(1901年11月)で人生を終えるまで、兵曹賛判、咸鏡南道兵馬節度使、済州牧使等を歴任し、1881年に鬱陵島検察使に任命された。安龍福の活動後、日本人の鬱陵島への往来が禁止されたにもかかわらず、1881年に日本人が再び鬱陵島に入り、無断で木材を伐採しているという事実が鬱陵島捜討官により摘発された。この事実は江原道観察使を通じて、朝廷にすぐさま報告された。そのため朝廷は王に深く信頼されていた李奎遠を鬱陵島検察使に任命して鬱陵島に派遣し、鬱陵島の状況を調査させたのである。 1882年4月30日に鬱陵島に入島して5月 11日に鬱陵島を出発するまで、李奎遠は鬱陵島の地形や土地の肥え具合、島民が暮らす場所を始め、島で産出される海産物を細かく記録した。島を囲む多くの峰は雲の上まで絶壁のようにそびえ立ち、3,000mにまで伸びた木が天を突き日差しを遮っていたという。また、各地の人々が春に鬱陵島にやってきて、木を切って船を作り、魚やわかめを獲ったり、幕を張って薬草を採ったりしていた。また、羅里洞の山の上に平野が開かれ、10里もの肥沃な平地が広がっており、開墾すれば一千戸近い民が生活を営めるとも述べている。また、日本人が木の標を立てたり、木材を伐採する等、鬱陵島がまるで自分たちの領土のように振舞っているという事実も報告している。

李奎遠の報告をうけて、朝廷は即刻日本に抗議書簡を送り、すぐに鬱陵島の再開拓事業を開始した。1883年 4月、各道から募集した16戸54人が移住してから、鬱陵島住民は徐々に増加していった。1900年10月になると、大韓帝国勅令第41号を公布して鬱陵島を独立した郡に昇格させ、地方行政長官である郡主に鬱陵島と独島を管轄させた。昔から鬱陵島に鎮を設置し、住民を移住させるべきだという主張が幾度か提起されたが、却下されてきた。しかし、李奎遠の鬱陵島検察報告により、刷還政策と捜討政策という名前で400年余り閉ざされてきた鬱陵島の門戸が開かれ、それまでとは異なる画期的な鬱陵島管理政策が行われることになったのである。

李奎遠の報告をうけて、朝廷は即刻日本に抗議書簡を送り、すぐに鬱陵島の再開拓事業を開始した。1883年 4月、各道から募集した16戸54人が移住してから、鬱陵島住民は徐々に増加していった。1900年10月になると、大韓帝国勅令第41号を公布して鬱陵島を独立した郡に昇格させ、地方行政長官である郡主に鬱陵島と独島を管轄させた。昔から鬱陵島に鎮を設置し、住民を移住させるべきだという主張が幾度か提起されたが、却下されてきた。しかし、李奎遠の鬱陵島検察報告により、刷還政策と捜討政策という名前で400年余り閉ざされてきた鬱陵島の門戸が開かれ、それまでとは異なる画期的な鬱陵島管理政策が行われることになったのである。
