資料室

  • 独島の現況
    • 独島の位置
    • 独島の構成
    • 独島の名称
    • 独島の自然
    • 独島の気候
    • 独島の表記法
  • 独島侵奪史
    • 悲しき歴史
    • 本邦関係無之
    • 無茶な論理
    • 朝鮮民族の誇りの地、独島
    • 日本の独島侵奪の歩み
  • 歴史の中の独島
    • 三国時代
    • 高麗時代
    • 朝鮮時代 (1400年~1700年)
    • 朝鮮時代 (1800年~1910年)
  • 独島偉人伝
    • 異斯夫
    • 安龍福
    • 李奎遠
    • 洪淳七
  • 独島の写真
  • 東海/獨島
  • 東北亜歴史財団
  • NEWS LETTER
ホーム > 資料室 > 歴史の中の独島 > 朝鮮時代 (1800年 ~ 1910 年)

朝鮮時代 (1800年 ~ 1910 年)

東海の独島は明らかに大韓民国の領土

1848(宪宗14年)
4月17日美国Cheroke号捕鲸船发现独岛(北纬37度25分,东经132度00分)

1849(宪宗 15年)
- 1月27日法国Liancourt号捕鲸船发现独岛(北纬37度2分,东经131度46分),并命名为“‘Liancourt Rocks’。独岛通过被标入法国海军海道图及海图,传于西方。
- 3月18日美国William Thompson号捕鲸船发现独岛(北纬37度19分,东经133度9分)并记载了“看见了三个大岩石(3 rocks)”。这便使人联想朝鲜成宗朝的三峯岛

1854(哲宗 5年)
4月6日(俄罗斯旧历)Putiatin所指挥的俄罗斯远东远征队4艘船只中,Olivntsa号军舰从马尼拉向鞑靼海峡行驶过程中发现独岛。西岛借发现军舰名称而起名为“Olivntsa”,东岛根据被发现第一支军舰名称Olivntsa号而被起名为“Menelai”,并且两个岛都被认为是朝鲜领土。Olivntsa号的独岛勘测内容、Bastok号的郁陵岛观测内容、Pallada号的朝鲜东海岸测量内容都被记入《海军志》1855年1月刊,成为1857年俄罗斯海军绘制《朝鲜东海岸图》的基础资料。

《Olivntsa号航海日记》(1854)、《俄罗斯海军志》(1855)、本海军省海道局的《朝鲜东海岸图》(1876)

1855(哲宗 6年)
4月25日英国舰队发现独岛,并根据发现独岛的军舰名称,给独岛起名为“Hornet”。

英国《航海杂志》(Nautical Magazine)(1856)、法国海军省的海道志(1856年版,第11卷)

1870(高宗 7年)
1869年12月被秘密派遣至朝鲜的日本外务省官员回国,并于1870年4月提交了复命书《朝鲜国交际始末内探书》。此复命书记载了关于调查“竹岛(郁陵岛)与松岛(独岛)为朝鲜领土的始末缘由”的内容。

《朝鲜国交际始末内探书》

1875(高宗 12年)
11月日本陆军参谋局绘制了《朝鲜全图》,此地图中将独岛标为“松岛”。由此可知当时独岛及竹岛(郁陵岛)都被视为韩国领土。

日本陆军参谋局的《朝鲜全图》

1876(高宗 13年)
- 日本海军绘制了《朝鲜东海岸图》。此地图是以1857年俄罗斯海军绘制地图为底本而绘制的作战地图。其中独岛及郁陵岛被标为附属于朝鲜的岛屿。
-10月16日日本在调查国土地籍绘制军事地图的过程中,岛根县向内务省提出质疑询问竹岛(郁陵岛)及松岛(独岛)是否应包含于岛根县地图。对此,内务省以岛根县递交的附属文书、元禄年间及安福龙时间为契机,约经过五个月的时间调查了与朝鲜交涉相关的所有文书后,做出结论认为独岛和松岛与日本毫无关系,为朝鲜领土。武藤平学向日本外务提交了“松岛开拓之议”,海军省1878年4月及9月派出天成丸号军舰,对松岛实际情况进行调查后,判明松岛为朝鲜的郁陵岛,并驳回武藤平学的松岛开拓之议。

《朝鲜东海岸图》(日本海军省水路局, 1876)

1877( 高宗 14年)
- 3月17日日本内务省认为竹岛(郁陵岛)外一岛(松岛-独岛)与日本无关,但是因为“版图的取舍是十分重大的事件应该向国家最高机关泰政官递同时交质禀书及其附属文书,再做出最终决定。
- 30月20日日本国家最高机关太政官制定了内容为“对于质禀书中竹岛外一岛问题,此岛与我国没有关系”的指令文。3月29日向日本内务省发出此指令文
- 4月9日日本内务省向岛根县发送了太政官的指令文。

《公文录》 内务省之部 1.

1881(高宗 18年)
7名日本人混入郁陵岛,伐木之中被搜讨官发现,因此江塬道观察使上奏请求采取应对措施。5月22日根据统理机务衙门的啓言向日本外务省发送了与此相关书契,并任命副护军李奎远为“郁陵岛检察使”

承政院日记 高宗 18年 5月 22日条, 日省录 高宗 18年 5月 22日条, 高宗实录 卷18.



1881(高宗 18年)
7月日本人北泽正诚编纂了《竹岛考证》,并将此书概括本《竹岛版图所属考》递交于日本外务省。日本1880年派军舰天成驶往郁陵岛,一方面进行实地考察,另一方面令北泽正诚调查郁陵岛、独岛的相关历史资料。此报告书结论为现今的松岛既元禄12年(1699)的竹岛,也就是郁陵岛不是日本领土。同时还附加了关于独岛的内容,即“除郁陵岛外,还有竹岛,但竹岛只是一个非常小的岛”

《竹岛考证》(上中下), 《竹岛版图所属考》

1882(高宗 19年)
4月7日郁陵岛检察使李奎远离别而走。据说郁陵岛附近有芋山岛及松岛、竹岛,高宗对此予以关注,为在郁陵岛设邑,命令绘制其详细地图及报告书(别单)。 召见检察使李奎远 辞陛也 敎曰 郁陵岛近有他国人物之无常往来 任自占便之弊云矣 且松竹岛芋山岛 在于郁陵岛之傍 而其相距远近何如 亦月何物与否未能详知 今番尔行 特为择差者 各别检察 且将设邑为计 必以图形与别单 详细录达也 奎远曰 芋山岛卽郁陵岛 而芋山 古之国都名也 松竹岛卽一小岛 而与郁陵岛 相距为三数十里 其所産 卽檀香与简竹云矣 敎曰 或称芋山岛 或称松竹岛 皆舆地胜览所载也 而又称松岛竹岛与芋山岛为三岛统称郁陵岛矣 其形便一体检察 郁陵岛本以三陟营将越松万户 轮回搜检者 而擧皆未免疎忽 只以外面探来 故致有此弊 尔则必详细察得也 奎远曰 谨当深入检察矣 或称松岛竹岛 在于郁陵岛之东 而此非松竹岛以外 别有松岛竹岛也 敎曰 或有所得闻于曾往搜检人之说耶 奎远曰 曾往搜检之人 未得逢着 而转闻其梗槩矣

《承政院日记》 高宗 19年 4月 7日条, 《日省录》 高宗 19年 4月 7日条, 《高宗实录》 卷19.

1882(高宗 19年)
6月5日郁陵岛检察使李奎远复命,4月30日到达郁陵岛,5月2日起对郁陵岛进行了为期10天的调查,最后返回平海邱山浦。李奎远表示郁陵岛可以设邑,并建议在羅里洞设邑较为合适。在其调查过程中,揭发了日本在岛上砍伐树木,并竖起标木称之为“松岛”的事实,决定以此向日本公使及外务省提出抗议。

《承政院日记》 高宗 19年 6月 5日条, 《日省录》 高宗 19年 6月 5日条, 《高宗实录》 卷19, 李奎远的 《郁陵岛检察日记》 「啓本草」

1882(高宗 19年)
8月20日根据领议政洪淳穆的奏折,向郁陵岛差送岛长。并根据检察使李奎远的建议,任命居住在岛上的咸阳人全锡奎为岛长。

《承政院日记》 高宗 19年 8月 20日条, 《备边司誊录》 高宗 19年 8月 20日条, 《高宗实录》 卷19, 李奎远的《郁陵岛检察日记.》

1883(高宗 20年)
3月16日金玉均被任命为“东南诸岛开拓使兼捕鲸等事使”。

《高宗实录》 卷20, 21.

1883(高宗 20)
4月、日本海軍水路局が「寰瀛水路誌」を発刊。第2巻「朝鮮国一般情勢」で独島(リアンコールト列島)を紹介し、独島が朝鮮の領土であることを自ら明言した。

寰瀛水路誌 第2巻(日本 海軍水路局、1883. 4)

1883(高宗 20年)
- 4月、鬱陵島に初の移住民16戸54人が入島する。
- 7月、朝鮮政府が、鬱陵島に移り住んだ初の移住民の定住状況を調査。

光緖9年4月日「鬱陵島開拓時船格糧米雜物容入假量成冊」、「光緖9年7月日 江原道鬱陵島新入民戸人口姓」

1884(高宗 21年)
1月11日,东南诸道开拓使金玉均禀报“郁陵岛长全锡奎私下与日本进行勾结,将郁陵岛木材运往日本。因此决定监押全锡奎。议政府啓 卽见东南诸道开拓使金玉均狀啓 则郁陵岛木材 多被日本人偸斫运去云 故载木船隻 执畱诘由 则称有本岛长票凭 以钱米换来云 本岛 係是未通商口岸 则越境潜斫 有违公例 以该岛长全锡圭言之 不惟不能禁止 乃反贪利违法者 合置重典 其罪狀 请令庙堂禀处矣 岛材之毋得犯斫 已有书契往復矣 岛长设置 亦为此等察检 而乃反换物濳运者 有关国禁 万万痛恶 全锡圭 押上秋曹 按法勘处 其代以勤干解事人 卽为定送事 请分付道臣 允之

《承政院日记》 高宗 21年 1月 11日条, 《日省录》 高宗 21年 1月 11日条, 《备边司誊录》 高宗 21年 1月 6日, 11日条, 《高宗实录》 卷21.

1884(高宗 21年)
- 3月15日统理军国事务衙门的奏文内容为在郁陵岛进行再开拓,应先设置官守,然后再募集百姓,开垦土地。因此令江塬道观察使采取措施,以及令三陟营将兼任郁陵岛佥使。 (职名 : 郁陵岛佥使兼三陟营将). 统理军国事务衙门啓郁陵岛行将开拓矣 先有官守然后 募民垦地 次第讲究 三陟营将 躬审形便 以图入驻之方 凡属排置之节 令道臣 从长措处 职名 以郁陵岛佥使兼三陟营将 下批之意 请分付铨曹 允之
- 6月30日根据统理军国事务衙门奏折,平海郡守兼任郁陵岛佥使。统理军国事务衙门啓 郁陵岛行将开拓 先有官守之人 然后募民垦地等事 当次第讲究 以平海郡守 兼郁陵岛佥使 下批之意 分付铨曹何如 允之

《承政院日记》 高宗 21年 3月 15日条, 《日省录》 高宗 21年 3月 15日条, 6月 30日条,《高宗实录》 卷21.

1888(高宗 25年)
2月6日根据内务府奏请内容,再此任命郁陵岛岛长,在平海郡越松浦新建万户镇,并令平海郡越松镇万户兼任郁陵岛长,并且进行往来及检察。 内务府啓 郁陵岛係是海路要衝 设置岛长 开拓有年 而规制草刱 尙多窒碍云 平海郡所属越松镇万户作窠 使该岛长兼带 以为往来检察事 分付何如 允之

《承政院日记》 高宗 25年 2月 7日条, 《日省录》 高宗 25年 2月 7日条, 《高宗实录》 卷25. 2月 6日条.

1894(高宗 31年)
12月7日郁陵岛已开拓,为了筹集搜讨所需资源,永远革除“郁陵岛搜讨船格什物”。总理大臣内务大臣度支大臣奏 卽见庆尙道慰抚使李重夏别单条陈者 俱係躬行採访 确凿有据 当此更张之会 亟宜矫正 臣等公同核阅 谨将合行事件 开列如左 伏候圣裁 (...) 一 郁陵岛搜讨船格什物永革事也 该岛今旣开拓左水营之分定 东沿各邑入送三陟越松镇者 殊甚无谓 搜讨船格什物自今永革之意 分付岭南阅东两道为宜 (...) 允之

《高宗实录》 卷32 12月 27日条, 《官报》 开国503年(1894, 甲午) 12月 27日.

1895(高宗 32、開国504)
- 1月29日、鬱陵島の搜討定策が撤廃されたため、内務大臣朴泳孝の上奏により、越松萬戸が兼任していた鬱陵島長を別途任命し、毎年数回船を送って島民の病苦を診察させた。
- 8月16日、内府大臣朴定陽の上奏によって、鬱陵島に島長の代わりに島監を設置することを決定。
- 9月 20日 鬱陵島出身の裵季周を鬱陵島監に任命し、判任官の待遇とすることを決定する。

承政院日記 高宗32年1月29日条、日省録 高宗32年1月29日条、高宗実録 巻33、官報 開国504年1月29日、第139号 開国504

1898(大韓帝国 光武2)
12月19日、日本人の盗伐と横暴が続くので、内府大臣李乾夏の上申によって鬱陵島に視察委員を派遣することを決定する。視察委員には禹用鼎が任命された。

高宗実録 巻39、官報 第1448号 光武3年12月19日

1899(大韓帝国 光武3)
12月19日、日本人の盗伐と横暴が続くので、内府大臣李乾夏の上申によって鬱陵島に視察委員を派遣することを決定する。視察委員には禹用鼎が任命された。

高宗実録 巻39、官報 第1448号 光武3年12月19日

1900(大韓帝国 光武4)
- 5月31日、鬱陵島視察委員の禹用鼎と釜山駐在日本領事館補の赤塚正補等、日韓領国の調査団が鬱陵島に到着し、6月5日まで日本人の蛮行と材木盗伐及び税金徴収の有無について調査し、島内の実情と島勢を把握する。
- 6月 15日、禹用鼎が帰還して報告書を提出し、日本人の速やかな撤収と鬱陵島官制の改編を提案する。
- 10月 27日、勅令第41号(10月25日)を公布して鬱陵島を鬱島に改称し、島監を郡守に変更することで江原道の27番目の郡として地方官制に編入された。勅令によれば、郡庁の位置は台霞洞とし、鬱島郡守の管轄区域は鬱陵全島と竹島、石島とされた。島監を郡守に改定したため、当時の島監、裵季周が初代郡守となり、鬱陵郡を南面と北面に区分したことにより、独島は鬱陵郡の南面に属することとなった。

禹用鼎の鬱島記と報告書、高宗実録 巻40、官報 第1716号 光武4年10月27日

1904(大韓帝国 光武 8)
- 2月10日、日本がロシアに宣戦布告。
- 2月23日、 「第1次韓日議定書」 強制調印。これにより、日本は日露戦争のため、韓国領土を任意で占領、使用できるようになった。
- 8月22日、「第1次韓日協約」強制調印。日本が大韓帝国の政府内に財政顧問と外交顧問を設置。
- 9月1日、 鬱陵島においてロシア艦隊を監視するための望楼(東南、東北2ヶ所、配置人員(使用人を含む) 各7人)が竣工する。(9月2日に業務開始).
- 9月24日、独島への望楼設置の可否を調査するため、日本の軍艦新高丸が鬱陵島を出発。「リアンクール岩礁は、韓人はこれを独島と書き、本邦の漁夫らはヤンコ島と呼んで」おり、望楼の設置が可能だという報告書が出された。
- 9月29日、日本の漁民である中井養三郎が、「独島を日本の領土に編入し、自分に貸して欲しい」という「リャンコ島領土編入並貸下願」を外務省、内務省、農商務省に提出する。
- 11月20日、独島が韓日間をつなぐ海底電線の中継地として、電信所の設置に適しているか否かを調査するため、日本の軍艦対馬丸が独島に到着。

官報 号外 光武 8年3月8日、極秘明治三十七八年海戦史、軍艦新高戦時日誌、島根県誌(1923)、隠岐島誌(1933)、軍艦対馬戦時日誌

1905(大韓帝1900国 光武9)
- 1月28日、日本の閣議で中井養三郎の請願を承認するという形式で「独島は主のない無人島(無主地)で、『竹島』と称し、日本島根県の隠岐島司の管轄下に置く」と一方的に決定。
- 2月22日、日本はいわゆる「島根県告示第40号」を捏造し、国際法上の無主地先占において「領土取得の国家意思」という要件を全て満たしたという合法性を装わせようとした。この文書が実際に告示されたという証拠はない。
- 5月17日、日本が独島を官有地として、島根県土地台帳に記録する。
- 6月13日、日本の軍艦橋立丸が独島の望楼設置方法について調査を行う。
- 7月16日、鬱陵島の北望楼竣工(8月16日から業務開始、配置人員(使用人を含む)11人)
- 8月19日、日本が独島の望楼を竣工させる。(竣工日から業務開始、配置要員4人、使用人2人)
- 9月5日、日露講和条約(ポーツマス条約)締結。韓国での日本の特殊権益が列強により承認される。
- 10月8日、鬱陵島の北望楼と独島の望楼との間に海底電線が敷設される。
- 11月9日、独島と日本の島根県松江間に海底電線が敷設される。
- 11月17日、日本が「第2次韓日協約(乙巳勒約)」を強制し、大韓帝国の外交権を完全に剥奪する。

秋鹿村役場本 「島根県告示第40号」(回覧用)、橋立戦時日誌、極秘明治三十七八年海戦史

1906(大韓帝国 光武10)
- 2月 1日、統監府と統監麾下の理事庁が業務を開始。大韓帝国は日本統監の支配下に置かれる。
- 3月28日(陰暦3月4日)、島根県第3部長の神西由太郞と隠岐島司の東文輔等が鬱島を訪問し、鬱島郡守の沈興澤に独島が日本の領土に編入されたので、視察に来たと説明する。これに対し、沈興澤は翌日江原道観察使署理春川郡守の李明来に「本郡所属独島…」で始まる緊急報告書を提出し、李明来は4月29日にこの内容を内府と議政府に報告する。この報告に対し、内府大臣李址鎔は「独島が日本に属する土地だというのは全く埒もない話であり、今この報告内容は非常に唖然とするもの」だとした。また、議政府参政大臣の朴齊純は、「独島が日本の領土だというのは全く根拠のない話であり、独島の状況と日本の動向をもう一度調査してみよ」との指令を下した。
- 9月24日、鬱島郡を江原道から慶尚南道に移属させる。

各観察道案 第1冊、光武10年4月29日条 報告書号外、指令 第3号、旧韓国官報3570号付録(光武10年9月28日金曜日) 勅令第4