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朝鮮時代 (1400年 ~ 1700 年)

東海の独島は明らかに大韓民国の領土

1403(太宗 3)
8月、(江陵道)観察使の上申により、江陵道・武陵島の住民を陸地に連れ出す。

「太宗実録」巻6



1407(太宗 7)
3月、対馬島守護宗貞茂が捕えていた朝鮮の人々を送還し、土産物を献上して武陵島に移住することを願い出たが、拒絶される。

「太宗実録」巻13

1416(太宗 16)
9月、三陟人前萬戸・金麟雨を武陵等処の安撫使に任命し、住民を刷還させる。

「太宗実録」巻32

1417(太宗17)
2月、金麟雨が于山島から土産物とともに住民3人を連れて帰り、島には15戸86人が住んでいると報告する。于山・武陵島に住民の居住を禁じ、住民を刷出させることが最終決定したため、搜討政策が確立される。8月、倭が于山・武陵で略奪を行う。

「太宗実録」巻33、34

1425(世宗 7)
10月、于山武陵等処按撫使の金麟雨が男女20人を連れてきて忠清道の深い山奥の山村に住まわせ、3年間税金を免除することを決定する。

「世宗実録」 巻 30

1429(世宗 11)
12月、奉常司尹李安敬を江原道に送り、蓼島について調査させる。

「世宗実録」 巻 46

1430(世宗 12)
- 1月、奉常司尹李安敬が蓼島について調査して戻ってくると、咸吉道観察使に蓼島の地形と住民の生活について調査させる。
- 4月、上護軍洪師錫と典農尹辛引孫をそれぞれ江原道と咸吉道に送り、寥島を探させる。

「世宗実録」 巻 47、48

1432(世宗 14)
「新撰八道地理志」が編纂され、「江原道三陟都護府蔚珍県条」に「于山、武陵、2島の真東側の海にあるが、2島は距離がさほど離れていないため、天気が良ければ眺めることができる」と記録される。この内容は1454年(端宗2)に編纂された「世宗実録地理志」にそのまま記録されている。

「世宗実録」 巻 153 「地理志」 江原道 三陟都護府 蔚珍県条

1436(世宗 18)
閏6月、江原道観察使柳季聞が武陵島牛山に住民を集め、萬戸と守令の設置を提案したが、却下された。

「世宗実録」巻 73

1438(世宗 20)
4月、前護軍南薈と前副司直曹敏を茂陵島巡審敬差官に任命する。7月、南薈と曹敏は男女66人と土産物を携えて戻る。

「世宗実録」 巻 81、82

1438(世宗20)
7月、江原道観察使に蓼島の位置を再度調査させる。

「世宗実録」 巻 82

1445(世宗27)
8月、江原道観察使に蓼島を見つけた者に褒章を行うことを命じ、再び南薈を派遣して探させたが、結局失敗した。

「世宗実録」 巻 82

1451(文宗元年)
この年に「高麗史」が編纂され、「地理志」東界蔚珍県条に「鬱陵島は県の真東側の海の真ん中にある。…一説には、于山、武陵は、元は2つの島で距離が遠くないため、天気が良ければ眺めることができたという」と記録された。

「高麗史」 巻58 地理3 東界 蔚珍県条

1472(成宗 3)
- 2月、兵曹が江原道の三峯島を見つけるための規定を上申した。4月、三峯島敬差官朴宗元が任地へと旅立った。
- 6月、江原道観察使が駆けつけて告げるには、5月 28日に蔚珍浦を出発した朴宗元一行が暴風雨に遭遇し、朴宗元が乗った船は6月6日杆城郡に帰還、司直郭永江等の乗った残りの3隻は5月 29日に武陵島に到着し、島を捜索して6月 6日江陵羽溪県に帰ってきたという。

「成宗実録」 巻15、17、19

1473(成宗 4)
1月、永安道観察使鄭蘭宗に三峯島と蓼島についての調査を命じる。

「成宗実録」 巻26

1476(成宗 7)
- 6月、金漢京等が三峯島に行ったことがあるというので、永安道観察使李克均に使いを派遣して捜索するよう命じる。
- 10月、永安道観察使が派遣した金自周が9月に三峯島を見て形状を絵に描いてくる。

「成宗実録」 巻72

1479(成宗 10)
閏10月、永安道敬差官曹偉が金漢京、金自周等21人を10月 27日に三峯島に向けて派遣したことを報告。一行は三峯島を発見できないまま帰還する。

「成宗実録」 巻110

1480(成宗 11)
2月、三峯島招撫使の職責を免れようとした上護軍鄭錫禧と訓錬院副正朴宗元を 流罪に処す。5月、三峯島招撫使沈安仁に三峯島 への出発を中止させる。

「成宗実録」 巻114、巻117

1481(成宗 12)
「東国與地勝覧」が編纂され、「江原道蔚珍県山川条」に「于山島、鬱陵島 – または武陵、羽陵 – 2島は県の真東側の海にあるが、天気が良ければ木等を見ることができ、風が穏やかなら2日で到着できる。一説によると、于山と鬱陵は、元はひとつの島だとも言う。…」と記された。この内容は、1530年(中宗(チュンジョン)25)に完成された「新増東国與地勝覧」にそのまま転載された。

「新増東国與地勝覧」 巻45 江原道 蔚珍県 山川条

1614(朝鮮・光海君 6)
- 6月、対馬島主が鬱陵島を礒竹島と称して、島の地形を調査するための道案内を求めてきたが、これを拒絶。
- 9月、対馬島主が鬱陵島に居住したいと求めたため、再び不許可であることを知らせる。

光海君日記 巻82、邊例集要 巻17 雜条 附 鬱陵島



1693(粛宗 19)
-安龍福の1回目の渡日。3月に東莱と蔚山の漁師40余人が鬱陵島で日本の漁師と衝突したが、日本人が安龍福と朴於屯を騙し、隠岐島に拉致する。安龍福は、隠岐島主に自分たちを拉致した理由を問い質して、再び伯耆州(対馬)太守に会い、鬱陵島は朝鮮の領土であるから日本人の鬱陵島往来を禁止して欲しいと要求した。伯耆州太守は幕府に報告し、これを遵守するという書契を安龍福に渡した。

- 11月、対馬島主が安龍福と朴於屯に、日本領土に進入したという罪を着せて朝鮮に送還する。対馬島主は鬱陵島を竹島と呼び、竹島は日本の領土であるから朝鮮人の出入りを禁止して欲しいという書契を同時に送付する。
- 12月、接慰官洪重夏が東莱の倭館を訪れ、倭使である橘真重と面会する。

粛宗実録 巻26、邊例集要 巻17 雜条 附 鬱陵島、五洲衍文長箋散稿 巻35 「陵島事実弁証説」、旅菴全書 巻7 疆界考


1694(粛宗 20)
- 2月、接慰官洪重夏は「鬱陵島は朝鮮の領土であり、竹島は日本の領土」という朝廷の回書を倭使の橘真重に手渡す。倭使が回書から鬱陵島を削除するよう求めたが、これを聞き入れなかった。
- 7月、前武兼宣伝官成楚珩が鬱陵島に鎮を設置することを提案したが、却下された。

粛宗実録 巻26、邊例集要 巻17 雜条 附 鬱陵島、粛宗実録 巻27

1694(粛宗 20)
8月、対馬の倭使橘真重が2月に受け取った回答書契を持参し、鬱陵島に関する文言の削除を再び要求した。朝廷では日本の姦計に積極的に対処することにした。まず、すでに送った回書の内容を修正することにし、兪集一を接慰官に任命して東莱の倭館に派遣する一方で、張漢相を三陟僉使に任命し、鬱陵島に派遣して様子を探ることを命じる。兪集一は安龍福から実情を聞いて倭使を叱り、「鬱陵島と竹島は1つの島につけられた2つの名前であり、鬱陵島は朝鮮の領土」であるという内容の2次回書を渡した。張漢相は9月19日に出発して10月6日に三陟に帰還したが、水路が不便なため、住民の居住よりは定期的に搜討官を派遣することにした。一方、張漢相は肉眼で鬱陵島の東南にある独島を観望した。

粛宗実録 巻27、邊例集要 巻17 雜条 附 鬱陵島、蔚陵島事蹟

1696(粛宗 22)
- 1月、徳川幕府、日本人の鬱陵島渡航禁止を決定する。
- 8月、安龍福の2回目の渡日。再度日本へ渡り鬱陵島問題について直談判して江原道襄陽県に帰還した安龍福を捕らえ、投獄した。安龍福は平山浦出身の李仁成等と共に鬱陵島と独島(子山島-于山島)を経て日本の伯耆州に入り、鬱陵子山両島監税を名乗り、先の約束を守らなかったことで太守を責めた。伯耆州太守は鬱陵島・独島地域を侵犯した日本人を処罰し、安龍福に「2島はすでに朝鮮に属しており、再び侵犯する者がいたり、対馬島主がむやみに侵犯する場合、厳罰に処する」と約束した。安龍福は幕府に対する上訴を取り下げ、江原道に帰還した。

粛宗実録 巻30

1697(粛宗 23)
- 1月、対馬島から倭使が訪れ、幕府の関白の命により竹島を朝鮮の領土として認め、日本人の出入りを禁止したことを伝える。
- 3月、安龍福の功績を認め、死刑に処さず、流罪とする。
- 4月、3年に1度、鬱陵島に搜討官を派遣することを決定する。

粛宗実録 巻31、承政院日記 粛宗23年4月13日条、邊例集要 巻17 雜条 附 鬱陵島

1699(粛宗 25)
7月、江原道越松萬戸の田會一が鬱陵島を捜討し、地図と土産物を献上する。粛宗 24年に嶺東地方の凶作により搜討官を派遣できなかったため、3年 に1度の捜討が正式に決定してから初めて派遣されたものである。

粛宗実録 巻33

1702(粛宗 28)
5月、三陟營將李浚明が鬱陵島を捜討し、地図と土産物を献上する。

粛宗実録 巻36



1705(粛宗 31)
6月、鬱陵島の捜討後、帰郷中に平海等の軍官黄仁建等16人が溺死したことに対し、見舞いの恩典を施す

粛宗実録 巻42

1708(粛宗 34)
2月、副司直金萬埰が鬱陵島に鎭を設置することを上訴したが、却下された。

粛宗実録 巻46

1717(粛宗 43)
3月 江原道観察使李晩堅が、凶作を理由に当時の鬱陵島捜討を停止しようという上申を行い、受け入れられる。

粛宗実録 巻59

1726(英祖 2)
10月、江原道の儒者李昇粹が鬱陵島に辺将を置き、住民を集めて耕作させることを上訴したが、却下される。

英祖実録 巻1

1735(英祖 11)
1月、江原道観察使趙最寿が凶作を理由に鬱陵島捜討の停止を提案したが、却下される。

英祖実録 巻40

1769(英祖 45)
10月、領議政洪鳳漢の提案で文蹟を広く集め、鬱陵島に関する冊子を作成することを決定する。提調元仁孫に命じ、三陟營將を務めた者と共に鬱陵島の地形と物産を描かせる。

英祖実録 巻113

1775(英祖 51)
日本で初めて経緯度線を書き入れた長久保赤水の日本與地路程全図に、鬱陵島と独島が「竹島または磯竹島(竹島一云磯竹島)」、「松島」と書かれる。鬱陵島の右側に「(この島から)高麗を見るのは、出雲から隠岐島を見るようだ(見高麗猶雲州望隠州)」と付記し、2島を朝鮮の領土として区分している。

日本與地路程全図

1785(正祖 9)
日本の林子平が著述した三国通覧図説の付図「三国接壌地図」と「朝鮮八道地図」に鬱陵島と独島が朝鮮の領土として表記される。

三国通覧図説

1787(正祖 11)
7月、蔚山の漁師14人が、鬱陵島から鮑とカイヅカイブキ、竹等を採取して帰還したところを三陟浦口で捕らえられる。

正祖実録 巻24

1794(正祖 18)
6月、江原道観察使沈晋賢が鬱陵島の捜討結果を報告。搜討官である越松萬戸韓昌国は4月 21日に出発し、5月8日に帰還した。彼は4月 26日に可支島を訪れた。

正祖実録 巻40